風のトポスノート767
「受け入れる」という役割
2010.9.24



   僕が「聴く」という簡単な言葉で言っているのは、皆さんのなかで
  はじめての方が多いからそう言っているんですけれども、もう少し言
  うならば「気持ちを受け入れる」ということです。そして、そういう
  ふうにして僕がある人の気持ちを受け入れることができたときにこそ
  「人間が素晴らしい」と言える、というふうに条件をつけたほうがい
  いかもしれませんね。
   野放しにしていたら悪いほうへ行くかもしれません。ところが本当
  に受け入れられたとき、人間というのは自分の力で立ち上がれる。そ
  ういう意味で僕らは「受け入れる」という役割をやっているわけです。
  こちらが受け入れた後で、立ち上がるのは相手です。
  (河合隼雄『河合隼雄のカウンセリング入門』創元社/1998.9.20発行/P.65)

なぜカウンセリングなるものが存在しているのか。
あらためて考えてみたいというのもあって、
まだカウンセリングがあまりポピュラーになっていなかったころの
河合隼雄さんの「講座」の記録を読んでいる。
この著書のもとになっているのは、昭和40年頃のもの。

カウンセリングでやろうとしていることは、
「受け入れる」という役割を引き受けるということ。
その「受け入れる」という役割はかつては宗教が引き受けていたように思われる。
たとえばマザーテレサがだれにも顧みられずに死に行く人に、
「あなたは必要とされている」ということを説いたのも、
その「受け入れられている」という安心感を与えることになっていたのだろう。

人は「受け入れられている」という安心感を得たいと切に思っている。
しかも、それが無条件であればあるほどに安心立命することができる。
子どもが母に依存せざるをえないのもその最初のかたちなのだろう。

ではなぜ「カウンセリング」なるものが現在これほどの必要とされているかといえば、
「受け入れられていない」と感じている人が多くいるからだと思われる。
さまざまな問題が生じ、それを自分のせいではないと思いたい。
そのことをふくめ、だれかに「受け入れ」てもらいたい。
そういう気持ちを宗教的行為に転嫁する人もいれば、
カウンセリングという場所に持ち込む人もいる。

しかし、上記引用にもあるように、
「立ち上がる」のはカウンセリングを受けている本人。
だれからに立ち上げてもらうわけではない。
救ってもらえるわけでもない。
実際にそこで行われていることは、かたちは違え、自己教育にほかならない。

カウンセリングや宗教を必要とするという人は、
その自己教育ということをそのままでは成立させることができないために、
外的に、ある種の「方便」としてカウンセラーなどを必要とする。

しかし、ある程度自己教育のできる場合は、
自らの内なる他者との対話という形でそれが成立することになる。
たとえ教師として知識を与えてくれる人が必要であった場合でも、
その場合は、カウンセリングや宗教とは基本的に異なっている。
そしてその際、その深みにおいて、
自分が「存在」に「受け入れられている」ということを「知っている」場合、
その自己教育はとくに有効に作用することになる。
また、宗教といっても、その宗教性の深みにある場合は、
たとえば祈りや瞑想というかたちを通じて、
「受け入れられている」という状態を得ることのできる人もいるということなのだろう。

そうしたカウンセリング的な機能は、カウンセラーというかたちをとらないまでも、
「話の聞き役」によって担われることも多くあるように思える。
話を聞いてもらって、自分を「受け入れ」てもらったと感じたいのだろう。

もちろんだれにでもある程度そういう要素はあるが、
とくにそういう「受け入れる」という役割を他者に対して
必死になって求めている人をよく見かけたりもする。
おそらくいわば自己との対話ということが成立しがたい場合、
なんらかの形でそういう「受け入れる」という役割を引き受ける人を必要とすることになる。

その役割を引き受けることのできる人を現代は多く必要としているということになるが、
その能力を得るということは、おそらくそんなに簡単なことであるとは思えない。
ぼくのような性格と能力ではとても困難であり、カウンセラーには不適格であるのはいうまでもない。
とはいえ、少なくともそうした場所でなにが必要とされているのか、
何が起こっているのかを理解した上で、
自分のできる範囲のことを別の形で可能な限りにおいて行うことができればとは思っている。
自分で自分を「受け入れる」ということも含めて。