風のトポスノート763
聖女とは何か
2010.9.15

 

 

  ーー「聖なるもの」ていう概念は、人間のすべての価値を超えたもの、と言うた
  はる人がいるやろ。
  ーーオットーたやったかな、エリアーデやったかな。そういう絶対的な「聖なる
  もの」を、ヌミノーゼとかいう薬みたいな名前で呼んだはったように思うけど。
  ーーそうそう、最近、「聖なるもの」ていったい何やろう、ということをよう考
  えることがあってね。とくに、「女性の神聖さ」については、まあ、柳田国男の
  「妹の力」批判みたいなことをしてみたこともある(略)。単に、生命を再生産
  できるからとか、本来的に霊的な力が男より勝っているとかいう説明では、女性
  の神聖さを語ったことにはならへんと感じてたから、書いたわけやけどね。
  ーーそうすると、やっぱり、女の神聖さは男という「体制側の人間」がつくった
  ものにすぎひんという結論になるんやない?
  ーーそれもたしかにあるわけ。けど、いままでうまく説明されてへんかったけど、
  日本でもほかの国でも女神を信仰する原始的な宗教なんかあるやろ?マリア信仰
  や観音信仰も、そうした女神信仰が父権的な宗教に取り込まれたものと考える人
  もいはる。女神への信仰が「原始」で「素朴」かどうかは大いに疑問なんやけど、
  なんやかんや言うてみても、なんで「聖女」なんていうもんがずーっと存在し続
  けてるのかはわからへんねん。
  ーー父権的な宗教が原始的な女神信仰を制圧した、なんていうのは。なんかこう、
  図式的やねえ。キリスト教的な西欧世界がみな悪い、て主張したはる人も多いけ
  ど、日本にかてそんな「原始的」な宗教が残ってるはずはないやんか。
  ーーそうやろ。そやけど、生命の再生産とかなんとかいう要素を全部取っ払って
  しもうたとき、女性に「聖なるもの」が残るのか、という問題はあるわ。わたし
  は以前、「何も残らない」て、偉そうに断言したんやけどな。もし「聖なるもの」
  が人間世界の外部にある絶対的なものやとしたら、聖女ていう存在にはまだまだ
  謎が残ってしまう。つまり、「聖なるもの」とは何か、ていう、とんでもな命題
  を抱えてしもうたわけや。
  (田中貴子『日本<聖女>論序説』講談社学術文庫 2010.9.13.発行/
   「原本あとがき」より P.258-260)

「聖女」というイメージはどこから来ているのだろう。
かつて神殿で神のことばを伝えた巫女のイメージや
大地的な豊穣のイメージもあるのだろうか。

キリスト教は、かつては神殿で神のことばを伝えた
巫女の力を封印というか抹殺しようとしたところがあるけれど、
たとえばミケランジェロが預言者のそばにシビュラのような存在を描いているように、
そうした巫女的な力というのは、そこそこポピュラーだったのだろう。
だからこそ、魔女裁判のようなことまでしてその力を根絶しようとした・・・。

ちなみに、シュタイナーは『聖杯の探求』(イザラ書房)で、
預言者とシビュラの違いを次のように述べている。

  預言者たちの魂は、霊のなかで「永遠」に没頭しています。シビュラたちは、霊的
  ・魂的なものを開示する地上的なものに感激しています。

そして、「キリストとシビュラたちとの霊的な戦いが繰り広げられた」という。
シビュラは古代から残った先祖返り的な力で大地の元素的なものに結びついて
その予言的なことばを汲み出していったのだが、
キリストはそうした力を切り離して、
思考の力、自我の力、個の力を強めていったといえる。

ちなみに、白川静さん(『常用字解』)によれば、
「聖」という文字は(儒教的な背景は考慮しなければいけないけれど)
こんな意味をもっているという。

  耳と口と壬(てい)とを組み合わせた形。
  壬はつま先で立つ人を横から見た形。
  口は「さい」(漢字表記×)で、神への祈りの文である祝詞を入れる器の形。
  壬の上に大きな耳の形をかいて、聞くという耳の働きを強調した形である。
  古代の人は耳には、かすかな音で示される神の声を聞く働きがあると考えたのである。
  祝詞を唱え、つま先立って神に祈り、神の声、神の啓示(お告げ)を
  聞くことができる人を聖といい、聖職者の意味となる。

おそらく「聖なるもの」というのは、
「聖」というのが高次の存在からやってくる「言葉」の器になる
そんな存在のことを尊重するところからでてきているのだろうと思う。
その意味で、神殿の巫女とかいうのもそうした存在であって、
それがある種の聖性を付与されたものが
アニマ的なものを纏って「聖女」になっているのだろう。

アニマ、アニムス的にいえば、それが高次のあり方に向かうプロセスとして、
ある種、肉体的なものやマザコン、ファザコン的なものから、
そして聖女や賢人的なものへと向かうようだが、
ある種の大地性を含んだかたちでの「神の声」を聞いたり、祈ったりという場合、
「聖女」というイメージに近しくなるのかもしれない。

そういえば、ぼくはいわば「近代人」ゆえの病なのか、
ぼくにはそうした「巫女」的な意味での「聖女」とかはピンとこない。
「生命の再生産とかなんとかいう要素」を女性に求めるとか
母なるものを求めるとかいうのもよくわからない。
むしろ、制度的に刷り込まれた女性ー男性図式への反発のほうがある。

そもそも「宗教」的な感覚が希薄なのとあまり社会的な制度を信じていないところから
そうなるのだろうけれど、
それにかわるものとして、宇宙の秘密・叡智に分け入りたい・・・
という深い憧憬のようなものがあったりする。
そしてそれを「聖なるもの」ということばではイメージできないのである。

個人的なことはともかく、
アニマ、アニムス的なところから考えてみると、
「聖なるもの」のありようが、
人間の集合的な無意識というか神話のようなものに
その背景があることが見えてくるところがあるようにも思う。

もっとも、アニマを単純に男性の内なる女性性、
アニムスを女性の内なる男性性のように限定するよりも
アニマ、アニムスとも、男女ともに内なる魂のありようとして見ていったほうが、
性別やらジェンダーやらの議論から少しは離れて考えることができそうである。