風のトポスノート745
問いには問いを
2010.5.15

 

 

   言語学者のラス・マナーは、《question》に対応するものとして、
  《answer》以外に、《retort》(言い返し)という用語を立ててい
  ます。例えば、「はい」か「いいえ」を要求する問いに対して「は
  い」か「いいえ」で答えるのが《answer》であるならば、《retort》
  はそのような問いの妥当性を、あるいはそれを問うという行為の是
  非を問題とします。
  (香西秀信『レトリックと詭弁/禁断の議論術講座』
   ちくま文庫 2010.5.10.発行/P.31)

疑問文には、修辞疑問というのがある。
答えを求める問いではなく、
自分の主張を認めさせるために
形の上で「問い」のかたちをとっている文である。
そういう修辞疑問に対して「はい」か「いいえ」で答えることは
実際問題として大変むずかしい。

本書で挙げられている例でいえば、
カンニングを見つかった学生が発したこんな「問い」がある。
万引きをしたときにもつかえそうな「問い」である。

  「他にもやっている人がある。要領よくやっているのが得をして、
  たまたま見つかったものが損をするのですか」

この「問い」に対して「はい」と答えれば
たまたま見つかった者が損をしているということを認めることになるし
「いいえ」と答えれば、
不公平を避けるために見つかった人だけを罰することができなくなる。

こうした問いに対して《answer》で対応することはできない。
《retort》しなければならないのである。
つまり、《question》そのものの妥当性を問わなければならない。
「あなたはどうしてそのような<問い>をしたのですか」と。
《question》するためには、
その内容について《question》した者に説明義務がある。
説明できなければその《question》そのものを無効にすることができるし
説明できたとしてもその「本意」を露呈したとすれば
そのときにも《question》をした者の愚劣さを引き出すことができる。

もちろん、「はい」か「いいえ」で答えるべき《question》であれば、
問い返したところで意味はない。
問いかけた者がその《question》の内容を説明するのは容易だからである。

上記のカンニングでの開き直りのような「問い」を挙げればきりがないが
ここでノートしておきたいと思ったのはそうした例を挙げて
対応についての「処世」を論じるためではない。

「問い」はふつう相手に問いかけるものだが、
その「問い」を自分に投げかける場合のことを考えてみたい。
私たちがふつう「考える」といったとき、
その多くは、心のなかで、自分で問いかけ自分で答える、という形をとる。

そのときの《question》について考えてみると、
これについても、上記引用のこと、
つまり、《answer》できるものとできないものがあり、
できないときには《retort》する必要があるときがある。

しかし、人は《retort》しなければならないときに
《answer》しようとして自縄自縛になってしまことが多いではないだろうか。
答えられない問いを自分に投げかけて
自分をどうしようもない場所に閉じ込めてしまう。
先のカンニングを見つかった者のような問いを自分に投げかけて
自分は損をしていると本当に思い込むことだってできる。
そんな愚かな場合はまだしも、
自分を追い込む必要がないにもかかわらず
「他に解決方法がない自分は死ぬしかないのだろうか」というような
とんでもない問いを自分にぶつけてしまうことさえある。
「はい」と答えれば死ぬしかなくなるし、
「いいえ」と答えれば「他に解決方法がない」ことに矛盾してしまう。

なぜ人はそんな馬鹿げた《answer》をしてしまうのだろうか。
おそらく《retort》する力を持たないか、
《retort》するくらいなら、自分を追い込んだほうが
そんな自分に酔っていられるからではないだろうか。

自分の「問い」に《retort》するためには、
自分の「問い」という「思考」の基盤を問い直さなければならない。
「なぜ自分はそんな考えを当然だと思っているのだろうか」と。
「そうするものだ」「そんなことは当然だ」と思い込んでいることを
いちどクリアしてみるという作業はそんなに簡単なことではない。
自分という人格を構成している骨格の部分が壊れてしまうからだ。
それはペルソナ(仮面)であって、仮面なんか外してしまえばいい、
と言うのは簡単なことだけれど、仮面を外した自分の顔に直面するのは
そんなにやさしいことではない。

それに比べれば、相手がいて、
詭弁レトリックをつかって問いかけてくる相手に
《retort》するなどは容易いことだ。

目には目を・・・というように
「問い」には「問い」を。
自分をさまざまに限界づけている「自問自答」という「思考」にも
その最初の「問い」に対して「問い」を。
そうすることで、さまざまな呪縛から逃れることができる。
「呪」というのは、コトバによる呪いである。
自分で自分にかけた「呪」は自分で解かなければならない。

なぜ自分はこうなんだろう、こうなってしまうのだろう。
その問いにはまずこう問わなければなならない。
「自分がこうなのは、こうなってしまうのは自分がそうしたのだろうか」と。
そしてその問いに対しても、次々に自分に問いかけていかなければならない。
人は多く、そんな狂気に似た意識状態に耐えることができないために
最初からそんな「問い」に近づくことを放棄している。
放棄しているという意識もまったくないまま、ただのロボットになっているのだ。