風のトポスノート740
食べるということの自由
2010.3.25

 

 

  このごろ、食事の分量について、
  けっこうじぶんの意思で決められるようになってます。
  おにぎり1個で行こう、と決めたら、それでよし。
  「うどんすき」か、フルに食おうと決めたらそれもよし。
  おやつも食うなら食うし、やめることも不自由なし。
  しっかり守っていることは、夜中に食わないことと、
  空腹を「強迫観念」にしないことだけですね。
  「計るだけダイエット」は、毎日まじめにやっていたら、
  ほぼ理想の体重まで到達したので、
  現在のほんのちょびっと下くらいのところで、
  水平(グラフのかたち)になってもいいかと思ってます。
  お正月の「人生最高体重」から比べたら、
  5キロ減というあたりまでやってきました。
  けっこう、気分いいものですね。
  (ほぼ日『今日のダーリン』2010.3.25.より)

人は「食べる」ということにきわめて不自由にできている。

かつて多くの魂が経験したことのあるだろう
「飢餓」への恐怖もあるのかもしれないが、
「お腹が減る」ということに耐えられない人や
「食べる」ことをまったくコントロールできない人が多いように見える。

美味しいものを美味しいと感じられることもとても重要なことだけれど、
「食べる」ことがまったくコントロールできないために、
過剰に太ったり(アンチで拒食したり)、偏食したりすることになるのは、
ほんとうに不自由以外のなにものでもない。

もし多くの人が「食べる」ことを
ある程度コントロールできるようになれば、
現代人の抱える医療の問題などの多くも、
医療費の増大のこともふくめ、飛躍的に改善されることになるだろう。
鯨を食べるとか食べないとか、マグロが食べられなくなるとかいったことにしても、
(その文化面でのさまざまなことは別として)
食べないなら食べないですませればいいのでは、ということになるし、
そもそも食の自給率という問題にしても、
食べないなら食べないですませられるものが多い方が、
その実質的なところを明らかにすることができる。

しかし、どうして人は「食べる」という欲求に対して
ここまで不自由なんだろうと思う。
上記の糸井重里のコメントは、とても単純なことであるように見えて、
その実、大変重要なことが言われている。
食事の分量について自分の意思で決めることができるということ、
そして「夜中に食わない」ということを守っているということ。
なにより、「空腹を「強迫観念」にしない」というのは重要なこと。

実際、体調の不全とかいうことがあったとしたら、
まず、自分が今何をどれほど食べているかをふりかえったほうがいいように思う。
仕事場で、いつも風邪をひいたり体調を崩したりしている人に聞いてみると、
そこらへんのことにあまりにも無自覚なことが多いようである。
そしてそれを直すということについてあまりにも怠惰というか、直す気がまずない。

一昨年あたりから、ぼくもときに、どこか体調(気分も含め)がよくないときは、
数日間、ある程度の軽度な断食というか節食などをしてみることが多くなっている。
(ここ数日もそうしているところ)
もちろん、フルに仕事をしながら、数日間空きっ腹のままというのは、
けっこうな気力や忍耐力などが必要になってくるのは確かだけれど、
「空腹を「強迫観念」にしない」ようにするだけで多くはクリアできる。
(たぶん、隔離された断食行よりも、他の隔離された行とくらべても、
若干キツイかもしれないけれど、こういうやり方のほうが、
現代人にとって必要な、そして可能でもある仕方なのだろうと思う)

しかも空腹状態のほうが、自分の体調や心の状態が繊細になる。
もちろん、美味しいものを麻痺しないで美味しいと感じることができるようになる。
要は、いつも食べることに執着しすぎればするほど、
人は鈍感になってしまうということでもある。
現代人は食べ過ぎであることがほとんどなので、
節食後は体調もずいぶんよくなることが多い。
「ダイエット」とかいう偉そうなことではないとしても
体重などはあれよあれよというほど減ってきて、
無理なく意志を働かせていた場合、リバウンドのようなことは考えにくい。

以前から、糸井重里に関して、「よく無自覚に食べるなあ」という印象があったので、
今回のコメントにはちょっと感動した次第。