風のトポスノート718
分けること
2009.10.29

 

 

   なぜヒトは飽くことなく分類し続けてきたのだろうか、という素朴な
  疑念は誰しも抱くにちがいない。いまやその絶滅が危惧されている職業
  的な「分類学者」だけでなく、社会の中で日常生活を送っている大多数
  の「分類者」にとって、分類するという行為はもっと身近なことだろう。
  しかし、どのように対象物を分類すればいいのかとか、どうすれば分類
  のよしあしを評価できるのかという問題に対して、誰もが納得できる答
  えをすぐに用意することは、いまなお容易なことではない。
   その理由ははっきりしている。万物を分類すべく生まれてきたわれわ
  れヒトは、実のところ自分自身にビルトインされた「分類思考」の正し
  い使い方を、誰ひとりとして知らないからである。
  (・・・)
   分類学の歴史をたどるとき、われわれは、分類思考にそれほど幅広い
  自由度がないことを知る。
   分類学のカテゴリーやタクソンに関する現代のヒトの思惟は、民族分
  類学が示唆する原初的な分類思考を驚くほどそのまま受け継いでいる。
  「この種は実在する」とか「あの分類体系は正しい」という主張を耳に
  するとき、われわれはその問題に対する最終的な解決は期待できないと
  悟った方が幸せな人生が送れるにちがいない。「種」や「分類」は自然
  界の中に「ある」ものではないからだ。
  (三中信宏『分類思考の世界/なぜヒトは万物を「種」に分けるのか』
  講談社現代新書2014 2009.9.20.発行 P.297-299)

分別する、識別するといった言葉からもわかるように
なにかを「分かる」ためには、分けることが必要である。
私たちは、生まれたときにあったようなある種のカオスから抜け出して
生き延びていくためには、さまざまなものを分けていかなけばならない。

しかし、『老子』に、
有と無、難と易、長と短、高と下、前と後は
お互い相手があってはじめて成り立つとあるように、
分けるということは、分別知であって、
それらはすべて相対的なものである。
だから『荘子』にもあるように
混沌を分けようとして穴をあけていくと混沌は死んでしまう。

とはいえ、私たちは分けないでは、分からないでは、生きていけない。
「生」といったとたんにその相対である「死」がでてこざるをえないように、
飽くことなく「分け」て、混沌をどんどん死なせていくことなしでは、
生きていくことはできないのである。

それを分別知として断罪することは容易なことだけれど、
なにかを分別知であるとみなすことができるということは、
いったんなにかを「分別」できるということが前提になる。
最初から「分別」できないというのは、「前ー分別知」とでもいったほうがいい。

まず、「分別」ができるようになった後、
そのみずからが下した「分別」から抜け出せる自由を獲得すること。
それを「後ー分別知」とでもいっておくことにしようか。

ときとして、その「前ー分別知」と「後ー分別知」は混同されることがある。
悪人正機とかいう捉え方が成立しえるのも、その両者の違いを踏まえたときである。
もちろん、そこにはいまだ「善」「悪」という「分別」ははいっているが、
すくなくとも、自分の行なっていることを「善」としてみなすしかない不自由 さに比べ、
自分が「悪」である、「悪」をなしているという自覚があるということは、
少なくとも最初の「前ー分別知」からは脱しているということはいえるように思う。

つまり、自分がなにをしているのかわからないままに
なにかをなすというのが「前ー分別知」であるのに対して、
少なくとも自分がなにをしているのかある程度の自覚をもっているということ。
少なくとも自分が悪人であることだけは自覚できているということである。

人は分けないでは生きていけない。
人は自らをもさまざまに分けて固定化する。
自分は何者であるかということに対しても、
性別や職業や出自や地位やが自分であるとみなしてしまう。
しかしそれらを身にまとっているということを
一度は深く受けとめてその相対的なありようや縛りを自覚することなしに
最初から自分はあらゆるものから自由であるとみなすことはできない。
自分が何に対して不自由であるかを自覚することなしに
自由を認識することはむずかしいわけである。

だから、例えば光明を得たかのようにいわれる人であっても、
自分が自覚的に「前ー分別知」から「後ー分別知」へのプロセスをたどっていなければ
それにたいする無自覚はいつまでも残ることになる。
女人を避けてきた修行者が自分のなかにいつまでも女人を背負っていたり、
無一物であることを戒としてきた修行者がいつまでも財を影としてたりするように。