エソテリック心理学ノート

2 【自己知への道】 (2007.8.16)

   人間は快楽と幸福の達成を彼の人生の目標とするが、しかし彼はその目的
  を達成しそこない、単にその正反対のものーーところどころにちっぽけな快
  楽と非常に不安定な満足をちりばめたーーの達成に成功するだけである。真
  の幸福と満足の人生を生きることはまったく不可能なのである。彼は絶えず、
  真の幸福と満足の人生が達成できる何らかの道があるにちがいないと感じて
  おり、そのため常にこの達成のための手段を探しまわっている。あるとき彼
  は、望んでいる幸福を金銭、権力、野心を満たすこと等々によって達成する
  ことができると考える。またあるときは、彼は人類のためのーー社会や政治
  の分野でのーー仕事のなかに、あるいは文学、芸術、音楽等々を通じてのよ
  り美的な装いのなかに、それが見出されるはずだと考える。あるいは自分自
  身を科学的な仕事、哲学または宗教に没頭させることによって、それが見出
  されるはずだと。が、もし彼が自己が彼の内なる真実在であり、感覚による
  自己の満足が成功した人生の唯一の規準だと考えているなら、どんな方向に
  彼が向かおうと、彼は常にそして永久に失望へと運命づけられる。なぜか?
  なぜなら、人生における真の満足と幸福のために自己をあてにすることによ
  って、人間はまったく間違った方向に向いているからである。彼は自己を超
  えた何か、身体的注視をまったく超え、感覚によって直接触れられることが
  できない何かをあてにしなければならない。…われわれのすべてが知ってお
  り、もちろんのことと思っている自己は、単にその真の存在の低次の、より
  荒い側面なのである。われわれが「本当の私Real I」または「個性Individuality」
  と呼ぶことができるものを形成しているのは、その真の存在の高次の部分で
  あり、通常の自己の活動はその高次の部分が現われるのを妨げるのである。
  (ハリー・ベンジャミン
  『グルジェフとクリシュナムルティ/エソテリック心理学入門』P.28-29)

ハイアー・セルフとかビッグ・ミーとか高次の自己、等々、というのは
いわゆるニューエイジや精神世界ですでにおなじみではあるけれど、
おそらくそこでいわれるそれらの多くは、実際には
単に、擬装された低次の自己でしかなく、
特に「成功のために」とか云々が付加されている場合は、
まさに低次の自己の自己実現のカモフラージュでしかない。
身近なことから目をそらせ、
「そのままでOK」「あるがまま」であることが強調される場合も同様である。

その自己が真性である場合、
その魂は、通常の人生の成功に執着するはずもないし、
あらゆる努力を通ることを避けようとすることもない。
真性の自己は、自己実現することなどすでに必要としない。
それは自己実現そのものだからである。

さまざまな手段をとって、低次の自己は、高次の自己の出現を妨害する。
まるで悪が善を阻止するためにあらゆる試みをするようなものである。
自分の真の顔を見ることになったとしたら、
それまでの顔をすべて消し去ろうとさえ思うことだろう。

人はあらゆる言い訳をしながら、今の自分そのものに立ち止まろうとする。
自分の想像力の欠如さえ理解できないままに、
今の自分のあらゆる望みが実現できれば幸福になれるだろうと考える。
ときには、ボランティアとか利他とかいったさまざまなあり方を通じてさえ
自分のそのレベルでの幸福を実現するべく試みさえする。
自分をかえりみないでさまざまな活動をするということに
自己犠牲的な快楽を求めることさえある。
それらのすべては、自分の真の顔を見ないためになされることである。

もちろんそれらすべてを「遊戯」としてとらえることは可能である。
その「遊戯」は、低次の自己を研ぐ砥石でもある。
少なくとも、低次の自己が自分をすべてであると思い込む愚を避け、
自分の思い込んでいた幸福の実現に失望などしないためにも。

仏教で四苦八苦が強調されるのも、
それらの低次の自己実現そのものがすべて苦以外の何者でもないということを
あらかじめ理解する必要があるからである。
もちろん、自虐的に苦しみを選ぶ必要はない。
その逆である。
苦しみでしかないものに別のものを投影して
それとともに踊り戯れることに気づくことさえできるならば、
むしろ苦しみを避けることができる。
ときに、苦でしかないことを知りながら踊り戯れるのも遊興だけれど、
その遊興ばかりに身を賭してしまうことで得ることになるツケは大きなものとなる。