内田 樹『修業論

2013.7.27



 

◎内田 樹『修業論 』(光文社新書 2013.7.17)

内田樹は、いろいろなところで、消費行動のようにしか発想できない教育や修行などに対する警鐘を発しているが、今回の修行論ではそのことが根源的なところでとくにクローズアップされていると思われる。

ここでいわれている「修行」というのは、「身体を鍛える」ことではない。「身体を鍛える」というのは、すでにあらかじめ見えている能力や資質を数量的に増やすということだけれど、「修行」というのは、「エクササイズの開始時点で採用された度量衡では計測できない種類の能力が身につく」という「力動的なプロセス」だという。

だからそこにはゴールは見えていないし、ある地点に至ってはじめて自分がそこにいたるまでなにをしていたのかがはじめてわかる。修行はなにかをすればなにかがえられるというような、商品を購入するようなものではないという意味で教育にも似ている。逆にいえば、最初からなんらかの数値やゴールがあって、そういう「商品」を購入するために教育を受けるというのは、教育ではなく消費活動のひとつでしかないだろう。

消費行動においては、そこで得られるものは最初からすでに把握できているものだけで、それを超えるもの、まったく想像さえできないものは得ることができない。得られるのは、すでにわかっている範囲のものだけに限定される。答えは最初からあって、そこに未知への問いは存在しないし、問いのないところに、当初から用意されている範囲を超えた答えなどあるわけもない。しかし、現代では、そういうまるで答案用紙のようなQ&Aのような消費行動に似た認識が蔓延している。

本書をごくごく単純にいえば、ぼくの印象でいえば、内田樹がこれまでにさまざまなテーマで書いてきたある種のエッセンスなんじゃないかと感じた。ひとことでいえば、レヴィナス論+身体論ということにもなるだろうか。そのことは、最後に内田樹が本書を合気道の師である「多田宏先生」と哲学の師である「「エマニュエル・レヴィナス先生」に捧げられていることからもわかる。し、本書を紹介しているコピー「武道家として、研究者として、生活人として……40年の稽古を通して形作られた、ウチダ哲学の核心(エッセンス)」ということからもわかる。

内田樹にとって合気道の修行を通じて開発したのは「生き延びるための力」であり、それはあらゆる敵と戦って負けないというようなことを目的とするものではなく、「自分自身の弱さのもたらす災禍」を最小化すること。そして、「他者と共生・同化する技術をみがく」ということだという。そしてそのためには、私ー相手を対立的にとらえるのではなく、まるで右手と左手で拍手をするときのように、私と相手がひとつの身体を形成するでなければならないという。そしてそうした身体的実践は、瞑想や祈りにも通じているというのである。

そうした身体を内田樹は、「私と相手とを同時に含む複素的身体」と表現している。この「複素的身体」ですぐに思い出したのは、まるでヌーソロジーの複素平面である。この複素平面というのは、ヌーソロジーでいわれる「内面」と「外面」、いってみれば、私と他者がキアスム的に関係しあっている空間のことで、それはイデア的なレベルの表現なのだけれど、おそらくそのことを身体レベルにおいて表現しているのが「私と相手とを同時に含む複素的身体」なのではないかと思い、大いに興味をかきたてられた。かねてから、イデア的なヌーソロジーをなんとか身体レベルで展開できるようにならないだいだろうかとも思っていたので、思わぬ発見になった。イデアが身体レベルで顕現したときにこそ、道元のいうような「心身脱落脱落心身」となるだろうからだ。