現代の吟遊詩人:ヒップポップとラッパー

2013.7.22



 

◎都築響一『ヒップポップの詩人たち』
 (新潮社 2013.1.31)
◎巻紗葉『街のものがたり―新世代ラッパーたちの証言』
 (ele‐king books/2013.6.28)

昨日までの選挙期間中、なぜかヒップポップにはまっていたりした。自分でもちょっと驚いている。これまでラップ系をまとまって聴いたことはほとんどない。きっかけは、都築響一『ヒップポップの詩人たち』。いわばストリートでの詩が紹介されている名著『夜露死苦現代詩』を読み返していてふとしたきっかけで、『ヒップポップの詩人たち』という、いってみれば現代の吟遊詩人であるラッパーたち(宮廷的ではなくストリート的だけれど)を紹介してある著作があるのを知る。

紹介されているのは、田我流、NORIKIYO、鬼、ZONE THE DARKNESS、小林勝行、B.I.G. JOE、レイト、チプルソ、ERA、志人、RUMI、ANARCHY、TwiGy、TOKONA-X、THA BLUE HERBの15人。これらのラッパーたちに共通するのは、東京を離れたそれぞれの場所で活躍していることと、それぞれの場所でそれぞれの魂の叫びが個性的なリリックで言葉が発されていることだ。ちょっとびっくりするようなバイオグラフィーなどもそれぞれが語っていたりするが、それらのことばからは、嘘の匂いがしない。生々しすぎる匂いも多分にあるが、それを超えたなにかが確かに伝わってくる。選挙特有のあの死んだ言葉たちの群れのなかだからこそ、あらためてある意味でそれらの声に新鮮さを感じていたところも多分にあるのかもしれない。

ちょうど、その『ヒップポップの詩人たち』に心を動かされているときに見つけたのが、巻紗葉『街のものがたり―新世代ラッパーたちの証言』。この本でもラッパーたちの言葉と物語が新鮮だが、ここで紹介されているのは必ずしも地方からのものだとはかぎっていない。そ紹介されているラッパーは、AKLO、ERA、OMSB、PUNPEE、INTERMISSION、MARIA、田我流、宇多丸、MUmmy-D、THE OTOGIBANASHI'sと、重なっているのは田我流だけ。現在のヒップポップシーンをいわば時代のスケッチとしてみることができる。

新潮社の紹介サイトでは、特別にこれらの「ヒップポップの詩人たち」の楽曲を聴くことができる。
http://www.shinchosha.co.jp/hiphop/

さて、2冊ともに紹介されている田我流だけれど、『街のものがたり』のなかにこんなMCライヴのことが紹介されている。

「田我流は以前ライヴのMCでこんなことを言っていた。「原発FUCKだよな? 東電クソkらえだよな?」。煽るように叫ぶと、もちろん観客は大歓声で「イエー!と応える。しかしの後に田我流が発した言葉は観客にとっては予想外のものだっただろう。「でもさ・・・・・・、親戚や両親、友だちが原発で働いてたらそんなこと言える?」。もちろん会場は水を打ったような静けさとなった。」

田我流は原発の問題についてこのように語っている。
「俺らくらいの世代では“NO NUKES”って叫んでいる人が多いけど、俺は容易に反原発って発言できない。(・・・)だからって俺は原発に賛成しているわけじゃないけど、反原発とも言い切れないんです。それに見方を変えたら俺の意見は間違っているのかもしれない。とにかくこの問題については、みんなもっともっと考えなきゃいけないと思っています」

ところで、今回の選挙で話題になった「緑の党」から立候補したミュージシャンの三宅洋平の演説にはちょっとした感動を覚えた。そのなかにも田我流の名前がでたりもしているのだけれど、三宅洋平はかぎりなく青くさい。理想をそのまま理想として語っている。これは現代でだれにでもできることじゃない。そして、なにより重要なのは、決してだれも批判していない。それぞれの人にはそれぞれの立場や考え方や感じ方があり、それを言葉を尽くして語り合い「和」をめざすのが政(まつりごと)なのではないかという意味のことを言っている。立場の違う人たちのことを批判するのはたやすいが、たとえば原発にかかわっている人たちはただ悪のように非難されていいわけではない。戦争している人たちもそのことをただ非難されていいわけではない。ただただ「アンチ」をぶつけあってしまうことで、さまざまな衝突も起こり戦争も起こってしまうのだから。

三宅洋平 街頭トーク(大宮駅2013.7.18)【参議院選挙2013】
http://www.youtube.com/watch?v=9pm0Q8iJmy4

この演説のなかで、ジョン・レノンのイマジンをこえる楽曲だという「Even after all 」のことが紹介されている。
こういう歌詞である「Even after all the murdering/Even after y'all suffering sow」・・・「You know I love you so/You know I love you so and so」。これは涙なしでは聴けない。あらゆる殺戮があったり苦しみがあったりしても、それでも、そう、私はあなたを愛している、とても愛している」。
これをきれいごとだということはカンタンだけれど、そういうカンタンに身を委ねることに私たちはあまりに慣れすぎてきた。おそらくそういう「現実」とされるものは、外からくるのではなく自分からつくりだしてしまったものだと思う。人は理想をあまりにも安易にスポイルしてしまう。できそうもないことは現実的ではないとし、理解できないことは人のせいにする。

いまでもよく思い出すことがある。小さい頃、自分の置かれたわりと酷い環境のなかで「人はだれでもほんとうは、ほんとうのところはわかっている。そしてわかりあえる」とほんとうに思っていた。現実はむしろまるで逆なのだけれど。その後も、そしていまでも基本的には同じなのだけれど、違うのは、その「ほんとうは」のところをかぎりなく遠く、またはその人さえもほとんど意識できない深い深い底にはあるけれど、現象としてはほとんどまるでその反対だと思っているところだったりする。おそらく小さい頃、そう思っていたのはいわば「仏性」のことだったのだろうけど、問題はその青臭さをあきらめるかあきらめないかというところにあるのだろう。だから、「Even after all」が大切になる。この青臭い、でもこれをなくしてしまったらそこには憎しみと悲しみの連鎖しか残らないだろうことは、心に深く刻んでおきたい。

Finley Quaye「Even after all」。
http://www.youtube.com/watch?v=214cQIpcCIc