沓掛良彦『西行弾奏』

2013.7.4



 

◎沓掛良彦『西行弾奏』中央公論新社 (2013/5/24)

先日、「今日の音楽」という酔狂な音楽紹介でトルバドゥールやミンネジンガーなどをとりあげてみたのだけれど、その同時代、日本に目を移せば、和歌の時代、そして今様歌謡の梁塵秘抄、「遊びをせんとや生まれけむ」の時代である。

ちょうどそうしたトルバドゥールなどの音楽をご紹介していたときに、ふと見つけて読み進めていた本が、沓掛良彦さんの『西行弾奏』。そのときにはあまり意識していなかったのだけれど、そういえば同時代だったわけである。西行が生きたのは、元永元年(1118年)から文治6年2月16日(1190年3月23日)。後白河法皇が梁塵秘抄を編んだのが、治承年間(1180年前後)頃である。方法は異なっているとしても、
洋の東西で、さかんに歌がうたわれていた。

本書は、「弾き方のわからなくなった古代の楽器にたとえられる西行の和歌。 古今東西の文学に通暁する著者が深い敬慕の念をもって奏でる西行賛歌」と紹介されているけれど、ご紹介してきたトルバドゥールやミンネジンガーの音楽もある意味では、かなり「弾き方のわからなくなった」音楽をさまざまなイマジネーションなどを駆使しながら現代に再現されたものだといえる。つまり、かつて歌われ、演奏されていたそのものが実際のところどうだったのか、おそらくわからない。

ところで著者の沓掛良彦さんは、西洋古典学を専攻された方で、ロシア、フランスから、古典ギリシャ、ローマ、漢詩、江戸文藝までを射程に置きながら、狂詩・戯文作者として「枯骨閑人」を名乗っているとのことだが、今回の『西行弾奏』までに、洋の東西を問わずさまざまな「詩歌」について幅広く紹介されている方で、『トルバドゥール恋愛詩選』平凡社 (1996/01)という邦訳アンソロジーもだされている。とても納得のいくシンクロです。

さて、肝心の西行ですが、2000首を超える和歌が実際にのこっていて、家集に『山家集』(六家集の一)、『山家心中集』(自撰)、『聞書集』があり、勅撰集では『詞花集』に初出(1首)、『千載集』に18首、『新古今集』に94首(入撰数第1位)をはじめとして二十一代集に計265首が入撰し、逸話や伝説を集めた説話集『撰集抄』『西行物語』をはじめ、さまざまな伝承や研究などがあるにもかかわらず、その実体について確かなところはわかっていないようである。むしろ、西行伝説が一人歩きしてその伝説がさまざまなイマジネーションをかきたてながら大きな西行ファンタジーをつくりあげているところがある。

本書は、西行の真実はこれだ!というようなものではなく、これまでの諸研究を参照しながら、「歌僧」「隠遁者」「旅と漂白」「自然」「花」「月」「恋」「無常」といったさまざまな角度から西行像をイマジネーション豊かに見せてくれる。その豊かさこそを私たちは存分に味わうのがいいのだろう。

ぼくにとっての西行というのは、出家し遁世生活を送りながらも俗世の心を引きずったままのみずからを省みつつ・・というところに、深く共感する存在である。ぼく自身が、なんでもなく世に行きながら、心のなかではほとんど隠遁しているような遁世生活を送っているようなところがあるからかもしれない。

この本を読むまで知らなかったのだけれど、こんな歌がある。
「思へ心人のあらばや世にも恥ぢんさりとてやはと勇むばかりぞ」(思え、心よ、こちらがその面前で恥ずかしくなるような人がいれば別だが、そんな人はいないし、かといって恥を知らずにいてよいというわけではないから、奮い立って精進するばかりだ)
あまり優れた歌でも有名な歌でもないけれど、なんだかとても身につまされるような歌である。
おそらくはこういう心境があったればこそ、西行でもっとも有名な「願はくは花のしたにて春死なんそのきさらぎの望月の頃」が詠まれ、実際その時期になくなることもできたのだろうと勝手に想像をたくましくしてみるわけである。