森博嗣『スカル・ブレーカ - The Skull Breaker』

2013.4.30



 

●森博嗣『スカル・ブレーカ - The Skull Breaker』中央公論新社 (2013/4/24)

森博嗣の「ヴォイド・シェイパ」シリーズの新刊、第3巻目の『スカル・ブレーカ - The Skull Breaker』)がでている。(Vol.1が『ヴォイド・シェイパ The Void Shaper』、Vol.2が『ブラッド・スクーパ - The Blood Scooper』)。

森博嗣の作品は、映画アニメ化された「スカイ・クロラ シリーズ」を覗けば、それほど読んでいない。はじめて、リアルタイムで読むようになったのは今回のシリーズがはじめてである。
この話は、物心ついてから山で師と二人だけで生活し剣の修行をしてきた主人公が、師の死の後、師の遺言のとおり、山を下りて剣(だけではないけれど)の修行をしながら旅をするという話だが、一種のビルドゥングスロマンであり、哲学小説のような感じもうける。それまである意味で「タブララサ」のような状態かつとらわれなく生きてきた主人公が、世の中の「そういうものだ」という考え方を学びながら、みずからの道を見つけていくというストーリー。
今回の「ヴォイド・シェイパ」シリーズは、その意味で、自分があたりまえだと思っていたことが決して当たり前ではないのだということを、自分にあてはめて考えながら読むこともできるところもなかなかいい。しかも、ほかの森博嗣の作品と同じく、いやそれ以上に、表現としてはとてもやさしく、読みやすい。読みやすいけれど、なかなか深い。世の常識がどうにもぴんとこないとい主人公というところが、とくにぼくには大変近しく感じられる。

ちょうど少し前に、新書で『人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか』 (新潮新書 2013/3/15)がでているが、その本とどこかで呼応しあっているところもあるように感じる。

この本は、「本当に必要なのは抽象的思考である」ということについて述べているものであるといえる。抽象的に対比されているのは「具体的思考」であって、ふつうよくいわれているのは逆のこと、つまり「抽象的にばかり考えても何も解決しない」ということになるかもしれないが、ぼくもここで述べられている森博嗣の基本姿勢とほとんど近い考え方をしている。
逆説的にいうならば、具体的に物事を考えるためには、いちど物事を思い込みや常識的なところから切りはなして「抽象化」した上で、そこからもう一度、具体的なものに向かう必要があるということである。ここでいう抽象化というのは、とらわれから自由になって本質的なもの、つまり「理念」「理想」に向かうということであって、それこそが「考える」ということでもあるということなのである。シュタイナー的にいう「対象のない思考」ができなければ「考える」ということにはならない。もちろん、直接ぶつかっていくことは必要だけれど、たばぶつかって血を流して吠えたり泣いたりしてもそれだけでは、そこから問いもそしてそこから解決に向かうプロセスを辿るということもできないわけである。

『人間は・・・』に対するネット上の評を少しみてみたが、「具体的な解決方法・ノウハウがまったく書かれていないので読みにくい」という評があって、笑ってしまった。養老孟司が『バカの壁』など書いていたようなことだ。講演とかで養老孟司が「自分で考える」ということについて話した後、会場から「どうしたら考えるようになれるか教えてください」という質問があって絶句したという話がある。講演の内容こそが、「ひとの代わりに考えることはできない。自分で考えていくプロセス等が重要だ」とかいった内容だったからだ。しかし、ノウハウや答えを聞きたがっている人には、いったい何が問題なのかがわからないわけである。やれやれ。

最後に、『スカル・ブレーカ』から、主人公が「考える」ところをいくつか。

「大きな街には人が多い。だから仕事が増える、という理屈はわからないでもない。人が多ければ家も多くなるから、それを作ったり直したりする者も大勢必要だろう。しかし、仕事をするのは対価を得るためだ。その金は、どこから回ってくるのだろう。最初に誰がその金を稼いだのだろうか、否、そもそも、金を作ったのは誰なのか。それは、たぶん、この地を治めている者だろう。最初に金を作った者は、どうやって、みんなにそれがいろいろなものと交換できると臣事させたのか。何がいくらの金と交換できると、その勘定をどうやって決めたのだろうか。これは、なかなか難しい。
 それよりも、人が集まるから仕事ができるのか、仕事があるから人が集まるのか、その順序がよくわからない。堂々巡りではないか。考えるのは面白いが、答えは見つかりそうにない。」

「勝つことで安らぎを失う、とカシュウが言っていた。戦に勝った者は、これまで以上に守りを固め、敵の攻撃に怯えなければならない。負けた者には、この心配がない。いずれが得をしたこよになるか、と問われた。
 そもそも戦というのは、勝つことを望んで立ち向かうものではないのですか、ときき返すと、カシュウは首をふった。多くの戦は、戦わないことを避けたい、ただそれだけのために戦ったのだと。
 (・・・)
 生きるとは負け続けること、死ぬことはもう負けぬこと、という言葉がある。
 生きる死ぬはわかる。わかからないのは、勝つ負けるだ。
 勝つとは、相手がいて、相手を倒すこと。
 負けるとは、自分が倒されること。
 勝った者は強い。負けた者は弱い。
 強くなりたいとは、勝ちたいということだ。それは間違いないのに、常にそれが真実だとは思えない。そういう場面がある。」