「考える人」の2013年5月号の特集『小林秀雄』

2013.4.7



●「考える人」の2013年5月号の特集『小林秀雄』
  (生誕111年、没後30年記念)

付録CDで、対談音源初公開の「小林秀雄×河上徹太郎/歴史について」という1979年の最後の対談がついている。少し前にも同じく新潮社の芸術新潮(2月号)で小林秀雄の特集をしていた。

ベンヤミンとはちょっと違う仕方ではあるが、この小林秀雄の言葉もさまざまなアフォリズムのようなかたちで紹介されたりもすることが多くなっている。たとえば、新潮選書からでている『人生の鍛錬/小林秀雄の言葉』などはそうしたものだし、今回のような雑誌の特集などになるととくに、さまざまなところからなんか蘊蓄のありそうな言葉が引かれている。そういうちょい引きというのは好きなほうではないし、そういうのを読んでわかった気になるとしたらちょっと嫌な感じもするのだけれど、最近ではそういうのもまあありか、という感じにもなっている。図と地の関係でいえば、自分のなかでもかなり以前は「地」のことが見えないままに「図」のほうばかりを見てわかろうとしていたところがあるのだけれど、ようやく半世紀以上あれこれ試行錯誤、くだらないこともふくめあれこれやっていると、「図」を見れば、それが出来してくる「地」のさまざまなものが少しは見えてくるようになってきたからなのかもしれない。
世の中に流されているさまざまな情報などの多くは、「地」がほとんど考慮されていない。出ているものだけを目立たせることばかりで、肝心なものが見えてこない。そして、「図」をみただけで「地」のことがわからないと、すぐにファナティックに白か黒か、あいつが悪い、こいつが悪い、とかいうことだけが目について仕方がなくなる。自分を省みる力もなくなってしまう。

さて、話を少しもどして、今回雑誌のなかで引かれている小林秀雄の言葉をふたつほど。

「君は解るか、余計物もこの世に、断じて生きねばならぬ。」

「音楽の美しさに驚嘆するとは、自分の耳の能力に驚嘆することだ、そしてそれは自分の精神の力に今更の様に驚く事だ。空想的な、不安な、偶然な日常の自我が捨てられ、音楽の必然性に応ずるもう一つの自我を信ずる様に、私達は誘われるのです。」

ぼくも、ぼくがこの世でやっていることも、余計者以外のなにものでもないのだけれど、そんな余計者も「断じて生きねばならぬ」。ほんとうに遅すぎるのだけれど、半世紀以上生きてようやくぼくのなかで「生きねばならぬ」ことがわかるようになってきた。「生きねばならぬ」ということは、「死」を恐れないということでもあるのだから。

さて、まるで志ん生ばりの小林秀雄の声(実際に、志ん生の声から自分の語り口をつくったらしい)をご紹介したいところだけれど、付録のCDをご紹介するわけにもいかないので、YouTubeだ探してみたら、小林秀雄の「科学する心」というタイトルの付いた録音データがあってちょっといいので、ご紹介してみたい。内容はこんな感じ。(内容を適当にまとめています)
・・・科学は手助けにはなり、利用すべきものではあるが、科学に負けてはいけない。科学は、物と物との間にある法則、規則に関わるだけで経験、生は問題にしない。科学では、原因を調べていくことはできるけれど、物そのものを「知る」こと、認識することはできない。人生は芝居である。その芝居に入っていって、そこに働くもの、知恵が認識である。・・・こんな感じの内容。

http://www.youtube.com/watch?v=X2ZA6x9fFtk