岡井隆詩集・岡井隆歌集(現代詩文庫)

2012.12.4

 

思潮社の現代詩文庫が『岡井隆詩集』で200冊目になった。
同時に、「短歌俳句篇」も1冊目の『塚本邦雄歌集』に続く2冊目とし
て『岡井隆歌集』が同時に刊行(歌集のシリーズはまだ2冊だけ)。

この現代詩文庫をはじめて買ったのは大学1年の頃。
たぶん最初に買ったのはNo.55の『金井美恵子詩集』だったと記憶している。
ほぼ同時期に、31『入沢康夫詩集』、14『吉岡実詩集』なども読んで、
いわゆる「現代詩」にはまってしまった時期が比較的長く続く
(というか、ある意味で今までずっと続いている)。
ぼくの場合、ちょっと変則的ではあるのだけれど、
まとまって読むようになったのはいわゆる現代詩のほうが先で、
これが火付け役になって、次第に少しずつ前の時代や古典なども
読むようになったりするようになった。
いまでもとくにこの現代詩文庫や現代詩手帖などは
ときおり気に入ったものを物色したりもしていたりする。
言葉への意識の奥行きを育てる刺激にもなる。

今回、200巻刊行記念ということで、現代詩と短歌の同時刊行が「岡井隆」。
塚本邦雄と同じくいわば「前衛歌人」だった岡井隆の本来の領域である
短歌のほうはあまり読んだことがなかったので、いい機会になる。なかなかいい。

「岡井隆詩集」のなかに小池昌代の「歌と現代詩のあいだ」というエッセイが収録されているが、
このなかで、岡井隆について「書いたものが、なんでもすっと詩になってしまう、怖いような感じ」
「岡井の散文は、そもそもすでに「詩」だったのではないだろうか」という示唆があるが、
これはある意味最高の讃辞ではないかと思う。

逆に、詩とされるものを書いても、歌とされるものを書いてもすべてが散文的
(要は、質の高い散文ではなく低質の散文ということだが)になってしまうような言葉しか
使えようがない人がぼくも含めほとんどだろうから、これがどんなにスゴイことかがわかる。

ほんらいの言葉というのは、ポエジー、つまりはポイエーシス・創造としての言葉のはずなのに、
いかに私たちの言葉がただのボロクズのように
即物的あるいは感傷的になってしまっているのかを思う。
現状での自分の言葉を使う能力を勘違いしているということでもある。
岡井隆の詩と歌を最高だとまでは思っていないが、少なくとも、言葉に対する意識という点では、
そしてそれが持続的になされているという点でも、特筆すべき言葉使いなのではないかと思っている。