篠田桃紅『桃紅百年』

2013.3.18

この3月28日に百歳の誕生日を迎える篠田桃紅さんの
自伝的随筆集『桃紅百年』(世界文化社/2013.3.30)。
『桃紅―私というひとり』という著書にもあるように、
この「私というひとり」ゆえに、深さと拡がりのある世界を
百年ものあいだにわたって生き、ひらいてきた篠田桃紅さん。
そのことばは、深く豊かな拡がりを感じさせる。

シュタイナーは、かつての時代とは異なり、
人間は二十歳頃までは魂的にある意味自動的に成長できるが、それ以降は自分次第だという。
つまり、魂を磨かなければそのまま退化してしまうということである。
篠田桃紅さんという人は、ずっと自分を磨き続けてきた人なのだろう。
だから魅力的であり続けることができる。
人は歳を経ると、ある意味シンプルになるけれど、
自分をなおざりにしてしまうとそのシンプルさは視野の狭さや深みのなさとなってしまうのに対し、
自分を磨き続けるならばそのシンプルさは視野の広いにもかかわらず
豊かな奥行きのある風情となってあらわれるのだろうと思う。
そのためにも、「ひとり」というシンプルさを貫き続けることが必要なのだろうと思う。
「ひとり」でいられるからこそ、他者がそこに共存できるわけだし、
世界がそこにモナドのようになって照り映えることができるのだから。
そして、その「ひとり」は孤立ではなく自律であり、愛の条件でもあるのだから。

本書(『桃紅百年』)のはじめにこんなことばがある。

「ふとしては、私は、今こうしている私は誰なのか、
私、とは何ものなのか、と、思うときがあります。」
「私は、万年少女などと言われ、成熟しないで老いたらしい。
そういう者、への救いの言葉、世迷いごと、という美しい言葉が、
拾い上げてくれて、世にも幸せなことです」

世に、自分で成熟したなどと思っていることのほうが成熟から遠いことが多いように思う。
一家言を持っていたり、自分はなにか正しいことがいえる、できると思い込んでいたりもする。
ただ視野が狭くなっただけなのにもかかわらず。
ひとは、おそらくきちんと「私というひとり」を
「万年少女」「万年少年」のように生きることができるならば、
こんな篠田桃紅さんのような言葉にたどり着くことができるのだろう。
ぼくもできうるならば、ずっと未熟なままで「万年少年」のように、
こうして「世迷いごと」を言い続けることにしたいと思う。
そして、なにかひとつわかった気になったら
その10倍もいろんななぞが増え問い続けずにはいられないようであろうと思う。