シュタイナー『黙示録的な現代/信仰・愛・希望』

2013.2.12

・シュタイナー『黙示録的な現代/信仰・愛・希望』(西川隆範訳/風濤社)

シュタイナーの講義集の翻訳は、テーマ性と理解のためには
やはり連続講義は切り離さないで訳されたほうがいいと思うのだけれど、
あるテーマに基づいて集められた講義集も
それはそれで参考になるところも多いのでひととおり目を通しておくことにしている。

3.11後ということで、一昨年の9月、
ルドルフ・シュタイナーの『天地の未来/地震・火山・戦争』(西川隆範訳/風濤社)がでたけれど、
なんだかニューエイジ本のようなノリになっていたのもあって、
紹介する気にはあまりになれずにいた。
しかし、昨年の12月、その3.11後の第二弾ということででた、
『黙示録的な現代/信仰・愛・希望』は、全部読み通すとわかるのだけれど、
「キリスト」理解の重要性を認識するためにも大変示唆的だと感じたのもあって、
ご紹介しておくことにしたい。

通常のキリスト教のイメージから
シュタイナーのいう「キリスト」を理解すると、かなりむずかしいとは思う。
そもそもキリストについて、その「教え」のようなものを得ようとすると、
その困難さは増えるばかりではないかと思う。
シュタイナーは「仏陀は愛の教えを説いたが、キリストは愛を生きた」
(ここでいう「愛」は仏教でいうタンハー/渇愛ではないので念のため)という内容のことをいっているが、
まさに重要なのはそのことだ。
そこから「教え」のようなものを得ようとすると、
感覚的にいってもついていけない人も多いのではないかと思う。
しかし、わたしたちは、教えを教えてもらいたいのだろうか、それとも愛を生きたいのだろうか。
その違いによって、キリスト理解は大きく異なってくる。
教えが好きな人となによりも愛を大切にしたい人との違い。

本書の講義からいくつか引いておくことにしたい。
(「黙示録へのプロローグ/1908年6月17日、ニュルンベルク))

「キリスト以前では・・・人間は霊歴世界に入るために、感覚界から去る必要がありました。
そのようなことは、キリスト=イエスが地上に現れたことによって、もはや必要でなくなりました。」

「アブラハム以前に<私はある>がいた」
「世代を遡っていけば、君たち自身の個体のなかに、
すべての世代を通して流れるものよりも永遠のものが見出される」という意味です。
祖先以前に、各人のなかに入り込む存在、
各人の魂が自分自身のなかで直接に感じる「私はある」が現存していたのです。」

「キリスト教以前の宗教の創始者たちを取り上げてみましょう。
彼らにとっては、彼らが教えた内容が大事です。
それらの創始者たちが無名のままであっても、彼らが教えたことは残るでしょう。
それで十分なのです。
キリスト=イエスの場合は、ちがいます。
彼の場合、彼が物質的身体に宿って地上に生きたことが大事なのです。」
「彼の場合、彼の教えを傾聴するのが大事ではなく、彼が何を行ったか、
彼自身を見ることが大事です。」
「この人格の神性を否定するのは容易です。
ここに、初期キリスト教の教義と内的キリスト教といわれるものとの相違があります。
グノーシスとキリスト秘教との相違です。」

「キリスト教は最も素朴な心情のためのものでもあり、
最高に発展した知性のためのものでもあります。
秘儀参入者はそれをイメージで体験します。ですから、
どのような真理がそこにまどろんでいるかを予感できます。
しかし、人間は信仰ではなく認識を要求するようになるでしょう。
そのときも、キリスト教の内容に満足できるでしょう。
精神科学による福音書の解明がなされると、
人間はキリスト教のなかに完全に満足できる内容を見出すことができるでしょう。」