石井ゆかり 『親鸞』『禅語』

2013.2.2

石井ゆかり 『親鸞』『禅語』(写真:井上博道/PIE)(2013.2.2)

今占星術では一番人気だといっっていい石井ゆかり。
あまり流行りものには、仕事以外では近づかないようにしてたりするのだけれど、
この石井ゆかりという人の言葉にはとても共感を得ることが多いので、読む機会が多くある。

その著書『親鸞』(写真:井上博道/PIE)が、『禅語』につづいてでている。
この類の、キレイな写真+言葉という体裁の本はふつうまず買わないのだけれど、
この2冊で書かれている言葉は、とても深く豊かだ。
写真がキレイすぎる感もあるけれど、許そう。
『禅語』のときも、読み進むにつれて涙がでてきたのを思い出すが、
この『親鸞』での言葉も、宗教者ではないからこそつかえる真実に満ちている。

石井ゆかりの姿勢として好きなところのひとつは、
「先生」とか持ち上げられることを拒否するというところ。
「先生」と呼ぶな、と。
たぶん石井ゆかりは、占星術で人を「教え」ようなんかはしていない、
どころか、できうる限りそう理解されないようにしている。
そうしたところが、読者に同じ目線としての共感を持たせるのかもしれない。

しかし、この人の言葉は、ふつうマスコミのなかで迎合しているような
「同じ目線」のようなものでは決してない。
それらの多くの人の言葉は、とてもやせて、「奥行き」のほとんど感じられないような言葉ばかりだ。
一見、素晴らしいことをいっているような感じのあるスピリチュアル系の人たちの言葉の多くも、
ある意味、似たようなものであることが多い。
決して甘っちょろい「自らを信じなさい」とか「アクティブ指向」とかいった単純さはない。
しかも、それらを「先生」的に語ったりもしない。
なによりも、集団化、組織化したりしない。
スピリチュアルな教えを説くための会社をつくったりもしない
(たぶん、そういうのの多くは、どこかで勘違いしているのだとぼくは思っている)。

「先生」ということについていえば、
内田樹なども「先生はえらい」というように
(べつにほんとうに偉いというだけではなく、先生を偉いと思ったほうが学べるということ)
それなりの考えを持たれたうえで、「先生」である必要性を説く人もいるが、
それにしても個人的にいえば、ぼくは石井ゆかりのような、
教育者でない人の言葉のほうが信じられる。

ちなみに、「筋トレ」という石井ゆかりの「星占い等テキストコンテンツサイト」がある。
たぶん自分で手作りでつくっているサイトのようで、その地味さもいい。
http://st.sakura.ne.jp/~iyukari/